埼玉と東京の端にいた頃

主に90年代後半から00年代を郊外で過ごした記録

埼玉の冴えない高校生の夏休み

2002年。埼玉県の中でも田舎に住んでいた高校2年生の私が、夏休みにいそいそどこに出かけていたかというと、渋谷・原宿であった。

当時のお洒落の聖地・ラフォーレ原宿タワーレコード渋谷店に行く為である。

 

今でもまだあるのだろうか、年の離れた美容師の姉に勧められ買ったZipperというファッション雑誌に衝撃を受けた事が始まりだった。中学卒業も間近の3月の事だった。(ちなみに当時姉は、真っ青や緑の髪をした生粋のファッショニスタであったが美容師はそんなものだと思って気にもした事がなかった)

 

根元しかない薄く釣り上がった全剃りに近い眉に、ひじきのようなマスカラゴテゴテの囲み目にポップなカラーアイシャドウをした読者モデルが、私の地元では許されない奇抜な出で立ちで堂々とスナップされているではないか!

 

当時は浜崎あゆみ全盛期で、皆「ギャル」風であった。「ギャル」風のファッションに重力と風力に逆らったような縮毛矯正をし尚且つ「ガチンコ!ファイトクラブ」を毎週観ていないと笑い者にされる、そんな田舎の中学に通っていた。

 

私は浜崎あゆみモーニング娘。もガチンコも興味がなかった。ブルーハーツ小沢健二スピッツと当時連載始まったばかりだったワンピースが好きだった。しかしみんなと同じ物が好きでないとハブられる為必死に「フリ」をしていた。

ちなみにブルーハーツオザケンは全く世代ではないが姉の影響である。

 

「裏原系」とでも言ったか?原宿カルチャーに目覚めてしまった私は、朝から覚えたての下手くそ且つ奇抜な化粧をし、姉の私物であるヒステリックグラマーやオゾンコミュニティの服を纏って越生線に乗り、坂戸駅東武東上線に乗り換えた。

この東上線というネーミングは個人的に好きである。文字通り、「お上りさん」の電車は埼玉県民を乗せて埼玉県民の集まる池袋まで連れて行ってくれる。

そこから山手線に乗り、原宿を1つ過ぎた渋谷にまずは降り立つのだ。

 

渋谷自体には用はない。ただ、「渋谷に来た私」を満喫する為と、タワレコ渋谷店に行く為である。タワレコに入ると「Hermann H.&The Pacemakers」のCDを探す。あった、「SIX PACKS」だ。高校で出来た音楽友達に貰ったMDに入っていたアルバム。行きの電車でも聴いていた。1曲目の「言葉の果てに雨が降る」。音楽を聴いて涙を流したのは人生でこれを含めた3回だけである。しかし金がなく今回も買えない。ただその存在を確認し安心してから、タワレコのアルバイト募集の貼り紙をチェックし店を出る(遠方の高校生など雇わないと今なら思うが当時は本気で考えていた)。それがいつものルーティンであった。

 

店を出ると、炎天下の中1人ラフォーレを目指し歩く。途中ヒステリックグラマー本店に立ち寄り、涼みながらどうしても欲しいジーンズを眺めては試着を断り退店する。スナップされたらどうしよう!?なんて思いながらラフォーレ原宿に到着。

今思うとスナップなんて場所と日時が決まっていて、その時に行かないといけなかっただろうし、そもそも芋くさい高校生なんて見向きもされなかっただろう。

 

フォーレの中で何をしていたか?なんと買い物をする事はほぼなかった。金があれば勿論買い物もしたろうが、交通費で手一杯、無いものは無い。ただその「聖地」の雰囲気を味わえれば満足だったのだ。買えもしないが各店に入り、店員さんのお世辞を本気に取りニヤニヤしながら原宿駅より帰路に着いたのだった。帰りは、これも友達に貰ったノーナリーブスのアルバムのMDを聴きながら。

原宿にはラフォーレなんかよりお洒落な店がたくさんあったろうが、当時の私には「聖地」に行く私の演出が必要であっただけで、そこまでの熱意はなかったという事だろう。

「原宿熱」は高校卒業と共に冷めた。タワレコで働く事もなく、消費もままならぬ何も為さぬ大人になった。ファッションへの興味も失せつつある。

しかし今でも広島のタワレコに行くと(現在広島在住である)、店員さんに少し嫉妬する自分がいる。

 

 

 

 

ブログの記念すべき初投稿は、高校の夏休みの思い出にした。

町田や板橋に住んでいた頃のエピソードも随時投稿しようと思う。その当時と郊外の雰囲気を思い出せるような投稿に出来れば。