埼玉と東京の端にいた頃

主に90年代後半から00年代を郊外で過ごした記録

ガラケー最盛期の青春と性春

infobar」の新作が出るという。またスマホで新作を作らないかと思ってはいたが、まさか基本ガラケーの新作とは…恐れ入った。恐らく今回は手にする事はないと思うが、今までの「iida」の携帯電話は満遍なく手にしてきたつもりだ。(今ではしがないiPhoneユーザーであるが、特段不満はなくむしろ気に入っている)

 

infobarが一世を風靡した時代は、「ガラケー」最盛期であった。デザインも今のように画一されたものではなく、遊び心に溢れていた。中でも、auの携帯電話は、群を抜いてデザイン性が高かったと個人的には思っている。

当時は新規契約をすれば機種代0円で購入できる時代だった為、今より気軽に携帯電話を換えることが出来、最新の携帯電話を持っているという事は、当時の若者のステータスでもあった。各メーカーの新作携帯電話に、目まぐるしく追加される機能、パンフレットを眺めるだけでも心が躍ったものである。

 

2000年、「IDO」が「au」と名前を変えた時、織田裕二がCMキャラクターをしていた、あれは結構インパクトのあるCMであったが、それから私の携帯電話ライフは始まった。「cdmaOne」この単語に今でも少しゾクゾクする。当時田舎の中学で携帯電話を持っていたのは、クラスの半分程度であろうか?とても自慢に思ったものである。

 

当時は着信音を自分好みの音楽にする事が非常に非常に流行しており、私も狂ったように目当ての曲を探し回っていた。

時代が前後するが、私が「ケータイ」を手に入れる少し前までは、「着信メロディ」略して「着メロ」は「手打ち」するものであった。

前回の記事にも登場した美容師の姉は、私より何年も前から携帯電話を持っていた(彼女は90年代の申し子でありアムラー・ルーズソックスなんかの最盛期にコギャルをしていたが少し羨ましくある)。その姉の着メロを「作成」するのは私の役目であった。コンビニに行くと、「ドレミブック」などのいわゆる「着メロのレシピ」が載った分厚い本がたくさん並んでいたものだ。作成方法は…イマイチ詳しくは思い出せないのだが、既存アプリケーションで数字を打ち込むのではなかったか?数字を1つでも間違うと、みょうちくりんな曲が完成する為、その場合はどこにミスがあるか本とケータイと交互に睨めっこしていた記憶がある。便利と不便が共存する変革期だ。ちなみにこの頃の着メロは「3和音」「4和音」であった。

私がケータイを手に入れた頃には、ケータイはインターネット接続できるようになり、着メロは16和音になりダウンロード出来るようになった。「J研」「ポケメロ」などといったサイトで、一曲何十円・もしくは月額何曲300円などと料金を支払い購入するものだ。今のApple musicなどの音楽ダウンロードと仕組みは一緒である。それらのサイトからお気に入りの曲をダウンロードし皆トレンドに敏感な自分と個性を主張した(サイト選びを間違うとやたら速いテンポで調子の外れた間抜けな音の出るものをつかまされる為、視聴推奨であった)。この文化は高校卒業までは廃れず続いていたと思う。

 

インターネット接続が出来るようになって私を影で魅了した存在、「出会い系サイト」「アダルトサイト」の話もせねばなるまい。

中高生ともなれば、男女ともに性への興味は計り知れない。そこへ出てきてしまったのはそれらのコンテンツである。今でも出会い系などで起こる犯罪被害などは後を絶たず話題に上ることも多いが、当時は社会問題に発展する以前の、本当にアンダーグラウンドな時期であった。正直、「なんでもアリ」だったと思う。

中学3年生の頃にはすでに出会い系で知り合ったオトナと致していた子もいたし、高校生にもなればギャルは皆援助交際をしパンツを売ってお小遣いを稼ぎ、「ALBA ROSA」の服を買っていた。

パンツを売る事は、隣のクラスの黒ギャル「ナミ」にオススメされていた。「ナミ」が言うには、まず出会い系で買ってくれるおじさんを探しアポを取る、その後100円均一でパンツを買って、それを指定された場所に持っていきそのままおじさんに渡す、そうすると5000〜1万円くらいになるとの事だった。性への興味は尽きなかったがウブであった私は、(おじさん、100円のパンツなんでそんな高い値段出して欲しいのかな?何かでどうしても必要だけど、自分で買いに行けない事情があるのかな?)と本気で思っていた。自分で言うのもなんだがピュアである。今思うとおじさんは、「100均の新品まっさらパンツ」を「ナミの使用済みパンツ」と思い期待で胸がいっぱいのまま帰路についたのであろう。おじさんの期待を打ち砕いて歩いた黒ギャル・ナミの姿は当時の「強いギャル」像そのものであったのかもしれない。

ナミやその他ギャルたちが春やパンツを売っていた頃、私はというと、画質の悪いアダルトサイトのトップページでドキドキしていた。「18歳未満立入禁止🚫」「→18歳以上入口←」などと書かれたサイトのトップページ。18歳未満は入場してはいけないらしいが、バレたらどうしよう…?親に連絡が行くのか…?そんな葛藤でドキドキしていたのである。小学生の時生徒会に立候補した時より強い勇気を持ってエンターした先は、いくつかの意味で刺激的な世界であった。

まず卑猥な言葉の羅列。具体的な内容は今も変わらないだろうから割愛するが、高校生の女子にはかなり刺激的であった。その卑猥な言葉の先には、直接的なエロ画像もしくは動画(いずれも今では考えられないような低画質・動画に至ってはちんまりした画面に15秒と儚かった)がある、と思いきや永遠と続くようなローディング、そしてランキングサイト。この理不尽さもまた刺激的であった。そして一番刺激が強かったのは、忘れた頃にやってくる「架空請求」の電話である。

今はそんな事はなくなったかもしれないが、当時アダルトサイトを閲覧すると何故か電話番号やメールアドレスが何処からか漏れ、怖いお兄さんから電話がかかってきたのだ。はじめてその電話を取った私は、正にパニックに陥った。「アダルトサイト使用料が16000円未納になっている」「このままだと延滞金が加算されていく」「払わないと訴える」そんな内容であった。焦った私は、母に頼み倒しお小遣いを前借りし、言われるがまま16000円を指定口座に支払ったのだった。今でこそそんなものはハイハイワロス(これも時代を感じるが)とスルー出来るが、10代のピュアで無知な女子は本気で訴えられると震えたのだ。ちなみにその後何度も同じ手口の電話がかかってきたが、日を追う毎にどんどんスレていった私は、高校卒業の頃には「はぁ?お兄さんバカ?はらいませーん詐欺だって知ってまぁーす」と悪態をついて遊ぶまでに成長した。恐ろしいことである。

そうだ。もっと刺激的な事があった事を忘れていた。パケット通信料だ。アダルトサイト等を見まくったお陰で当時定額制ではなかったパケット通信料金が3万円を超え、母に激怒され日雇いバイトをして多少だが返した事を思い出してしまった。母ちゃん、本当に馬鹿で親不孝でゴメン。

 

携帯電話の革新期・変革期・混沌期と共に青春を歩いてきた。それはスマホへ進化し、今やどの世代にも欠かせない生活必需品となっていて、体の一部のような感覚である。が、今後「スマホ離れ」「便利離れ」が流行するのではないかと思っている。そして、「機能性重視」「シンプルデザイン」からまた「ガラケー最盛期」のような個性を突き詰めるようなスマホの流行もあるのではないか、と。それのきっかけが冒頭で触れた「infobar」最新作になるのでは、と。もし実現するなら楽しみではあるけど、おばさんはちょっと目と心が疲れたので、「スマホ離れ」の時間でも作ろうかと思っている。「ケータイでのコミュニケーション」は、今より個人的で閉鎖的で秘密めいたものだったから。そんな事をスマホ眺めながら考えている夏の日。

埼玉の冴えない高校生の夏休み

2002年。埼玉県の中でも田舎に住んでいた高校2年生の私が、夏休みにいそいそどこに出かけていたかというと、渋谷・原宿であった。

当時のお洒落の聖地・ラフォーレ原宿タワーレコード渋谷店に行く為である。

 

今でもまだあるのだろうか、年の離れた美容師の姉に勧められ買ったZipperというファッション雑誌に衝撃を受けた事が始まりだった。中学卒業も間近の3月の事だった。(ちなみに当時姉は、真っ青や緑の髪をした生粋のファッショニスタであったが美容師はそんなものだと思って気にもした事がなかった)

 

根元しかない薄く釣り上がった全剃りに近い眉に、ひじきのようなマスカラゴテゴテの囲み目にポップなカラーアイシャドウをした読者モデルが、私の地元では許されない奇抜な出で立ちで堂々とスナップされているではないか!

 

当時は浜崎あゆみ全盛期で、皆「ギャル」風であった。「ギャル」風のファッションに重力と風力に逆らったような縮毛矯正をし尚且つ「ガチンコ!ファイトクラブ」を毎週観ていないと笑い者にされる、そんな田舎の中学に通っていた。

 

私は浜崎あゆみモーニング娘。もガチンコも興味がなかった。ブルーハーツ小沢健二スピッツと当時連載始まったばかりだったワンピースが好きだった。しかしみんなと同じ物が好きでないとハブられる為必死に「フリ」をしていた。

ちなみにブルーハーツオザケンは全く世代ではないが姉の影響である。

 

「裏原系」とでも言ったか?原宿カルチャーに目覚めてしまった私は、朝から覚えたての下手くそ且つ奇抜な化粧をし、姉の私物であるヒステリックグラマーやオゾンコミュニティの服を纏って越生線に乗り、坂戸駅東武東上線に乗り換えた。

この東上線というネーミングは個人的に好きである。文字通り、「お上りさん」の電車は埼玉県民を乗せて埼玉県民の集まる池袋まで連れて行ってくれる。

そこから山手線に乗り、原宿を1つ過ぎた渋谷にまずは降り立つのだ。

 

渋谷自体には用はない。ただ、「渋谷に来た私」を満喫する為と、タワレコ渋谷店に行く為である。タワレコに入ると「Hermann H.&The Pacemakers」のCDを探す。あった、「SIX PACKS」だ。高校で出来た音楽友達に貰ったMDに入っていたアルバム。行きの電車でも聴いていた。1曲目の「言葉の果てに雨が降る」。音楽を聴いて涙を流したのは人生でこれを含めた3回だけである。しかし金がなく今回も買えない。ただその存在を確認し安心してから、タワレコのアルバイト募集の貼り紙をチェックし店を出る(遠方の高校生など雇わないと今なら思うが当時は本気で考えていた)。それがいつものルーティンであった。

 

店を出ると、炎天下の中1人ラフォーレを目指し歩く。途中ヒステリックグラマー本店に立ち寄り、涼みながらどうしても欲しいジーンズを眺めては試着を断り退店する。スナップされたらどうしよう!?なんて思いながらラフォーレ原宿に到着。

今思うとスナップなんて場所と日時が決まっていて、その時に行かないといけなかっただろうし、そもそも芋くさい高校生なんて見向きもされなかっただろう。

 

フォーレの中で何をしていたか?なんと買い物をする事はほぼなかった。金があれば勿論買い物もしたろうが、交通費で手一杯、無いものは無い。ただその「聖地」の雰囲気を味わえれば満足だったのだ。買えもしないが各店に入り、店員さんのお世辞を本気に取りニヤニヤしながら原宿駅より帰路に着いたのだった。帰りは、これも友達に貰ったノーナリーブスのアルバムのMDを聴きながら。

原宿にはラフォーレなんかよりお洒落な店がたくさんあったろうが、当時の私には「聖地」に行く私の演出が必要であっただけで、そこまでの熱意はなかったという事だろう。

「原宿熱」は高校卒業と共に冷めた。タワレコで働く事もなく、消費もままならぬ何も為さぬ大人になった。ファッションへの興味も失せつつある。

しかし今でも広島のタワレコに行くと(現在広島在住である)、店員さんに少し嫉妬する自分がいる。

 

 

 

 

ブログの記念すべき初投稿は、高校の夏休みの思い出にした。

町田や板橋に住んでいた頃のエピソードも随時投稿しようと思う。その当時と郊外の雰囲気を思い出せるような投稿に出来れば。